「スカート丈は自分で決める」以外に民主主義的な方法なんてない

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「スカート丈は自分で決める」以外に民主主義的な方法なんてない


こんにちは!
“信州から不登校&公教育”の関サバ子です。


この冬はじめての積雪で、朝、二男が「ホワイトクリスマスだ!」と叫んでました。
いったいいつの間にそんな言葉を覚えたのか、そっちが気になる母ちゃんです。


さて今回は、生きる上で大切な「自己決定権」の話です。
といっても、「進路を決める」みたいな大きな自己決定ではないですよ。
ふだんの暮らしの中でありふれた行為にもかかわらず、「それ、自己決定しちゃダメってことになってない?」というお話です。



★自己決定権ってなんだ

まずはWikipediaで定義を見てみましょう。

自己決定権(じこけっていけん、英語: Autonomy、オートノミー)とは、元々、「自分で自分に自身の法を与える者」という古代ギリシア語に由来する概念で、一般に自分の生き方や生活について、他者からの干渉を受けることなく自らの事について決定を下すことができる権利のことである。




★スカート丈を学校側と協議する!?
先日、Facebookで友人がとある記事をシェアしていました。


不登校児 教育の場がないのは「権利の保護」の怠り
https://dual.nikkei.com/atcl/column/17/101200003/103000319/



無理に学校に行かなくていいよと言うのはいいんだけど、子どもの学習権の保障が抜け落ちてるのはどうよ、という論旨で、
まあおおむねそうかなという内容だったんですが、最後の方に驚愕の一文が。


「例えばスカート丈なら、学校側が生徒と協議して決めるのが民主主義的な姿です。『階段の踊り場で、下からのぞき込まれない長さは何センチ』などの科学的根拠を提示するのも面白いと思います。しかしこうした手続きには手間がかかるので、管理者がトップダウンでルールを決めてしまうのです」




……えっと、「スカート丈は自分で決める」以外に民主主義的な姿はないと思うんですよね。

「自分が着るものは自分で決める」というのは、非常にベーシックな権利です。

「でもTPOが……」と言いたくなるかもしれませんが、ちょっと待ってくださいね。
「自分で着るものは自分で決める」という前提があってのTPO、ということはきっちり押さえておく必要があります。
その自由を制限するには、一定の合理性がなければなりません。



★私たちはいちおう民主主義国家に生きている
で、制服のスカート丈なんですが、これは本来他者と“協議”すべきことではないんです。
着るのは私なのだから、一義的に私が決めるべきことなのです。

集団生活というと「ルールが……」と言いたくなるかもしれませんが、ちょっと待ってくださいね。
そもそも、なんでもかんでもルール化してしまっていいのか?
「全体主義がいい」「考えるのが面倒」という主義の方ならまあ、分からなくもないかな。

ただ、日本はいちおう民主主義国家なんですよね。
で、法律より条約より上位に来る憲法によって、個人の自由や基本的な権利は認められています。

いや、そんな憲法などを振りかざさなくても、「自己決定権」というのはある種「自然権」的なものではないかということを、言いたかったんです。

前回投稿した記事で、マズローの欲求5段階説に触れましたが、その生理的欲求や安全欲求に並ぶものなんじゃないかなーと思うのです。


2019/12/16
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喉が渇いたら水を飲む。
眠たくなったら寝る。
もよおしたらトイレに行く。
それと同じくらい、「自分が着るものは自分で決める」ことはベーシックな欲求であり権利なんじゃないかという話です。

それに、子どもたちが日常を過ごす場を、ルールでがんじがらめにしていいんですかね? ってことです。
ルールでがんじがらめにすることが、本当の意味で子どものためになるのか?
問題視されるけど一向になくならない「同調圧力」って、そういうことなんじゃないでしょうか。

それに、「面倒だから」という理由で無造作に自由を制限するって、本来かなり無神経な話じゃないですか?



★前提をまず疑おう
スカート丈を学校と生徒で協議して決めればいいんじゃないか、というのはひとつの考え方ではありますが、今ある枠組み(それも不合理な枠組み)の外には出ないことをシレッと前提にしていて、これっていわゆる“ガラスの天井”的な話では? と感じました。
非常に不自由です。


「ガラスの天井」Wikipediaより
ガラスの天井(ガラスのてんじょう、英語: glass ceiling)とは、資質又は成果にかかわらずマイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁である。当初は、企業や組織、政治の世界などにおける女性のキャリアを阻む障壁のメタファーであったが、現在は男女を問わずマイノリティの地位向上を阻む壁としても用いられるようになった。



「その前提がそもそもおかしくない?」と疑うことは大事です。

疑うというと、ネガティブで人間不信なねじくれた印象を与えるのか、嫌がる方もいますね。
私が好きなイタリアのことわざに「信じるのはよいこと、信じないのはもっとよいこと(Fidarsi e bene, non fidarsi e meglio.)」というものがあります。
このマインドですよ。

そもそもルール化してはいけないものがあることを共有するのは、とても重要なことです。
個人が尊重される民主主義の国に住み続けたいならば、ね。

ちなみに私は、わりと管理教育のキツい九州の某県で育ち、制服も校則もばっちりある学校に通いました。
高校時代は「サバ子ちゃんは校則ひとつも破っていなそう~」と言われるほど過剰適応していた“真面目なよい子ちゃん”でした。
校則を守らない人を、はっきり言って軽蔑してましたね。

そんな私も、紆余曲折あり、今は制服も校則も一切不要だという考えに落ち着いています。
(軽蔑していた私を懺悔します。ごめんなさい)


この話については、また別稿に譲りましょう。
ではみなさん、よいお年をお迎えください~。


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